新しい景色

こんにちは。

新年が明けて2025年になりました。

元旦から天候が良かったせいもあるかもしれないですが、今年に入ってから、どこか気分が清々しいです。

何故か気持ちがとても軽くなった気がするのは、統合失調症で、去年から入退院を繰り返していた妹の調子が少し良くなって来たからかもしれません。

調子がいいというのは食欲が出てきて、ものを食べる様になってきたとか、自分のことが自分で出来きる様になってきたとか、頻発していた別人格が、ひとまず出てこなくなったとかいうことです。

妹は自分の中の別人格が自分の意志に反して言動を起こすことを自覚していますが、自分で抑制することができません。

でも今は医療機関の薬が効いているのか、入院時の治療が適切だったのか、なぜ調子が良くなったのか理由はわかりませんが、別人格が出て来なくなったということは、一時的なものかもしれませんが、今のところ本人の中で上手く意識の統合がされているということになるのかな?と思ったりしています。

意識が統合されるということは、自分の中の別の意識(?)を自分で処理できているということなのかなと想像しますが、それが全く消えたわけではなく、症状が軽くなって自分で抑制できている様子だということです。

統合する、別の意識を本人の本来の意識の中に戻す(?)というのは、家族や、一般の者の力では、なかなか難しいと感じます。

医療機関からこの1年、さまざまな病状のケースを伺いました。

肉体的な明らかに、眼にみえる病状のケースと同じ様にして家族が接することが必ずしもいいとは限らないと思いますし、処方される薬も、なかなか理解の枠を超えます。

自分以外の外部の者の、思いもよらないことが、本人の潜在意識の中に刺さる場合もあるのかもしれませんが、その刺さったものの先に引っかかっているものが何なのか?それを取り除いて消滅させる鍵になるのは何なのか?

などということは、やはり専門的な分野のところでもわからなかったり、消すこともできない場合もあると思います。

理由ははっきりわからないけれど本人の中で、眼には見えない変化があったのかもしれません。

同居している両親に関しても、二人とも90才を目前にしている訳ですから、物理的にできないことも出てきたといえると思います。

年が明けて明らかに、少しずつですが、去年とは違う家族の「変化」を感じとることができました。

去年は、私自身も、心身にかかってくる苦しさから、家族のことを感情的に描いたこともありましたが、そのことは、どこかで感じる心の圧迫感をその都度、自分の外に排出することが出来ていた様で、今はスッキリしている部分があります。

今としては、人は何らかの形で自分の考えや言動を、その人の周囲を取り巻いている家族や、人、社会に向けて発信していて「その人の情報」として自分の外の世界と関わりを持ちながら生きていると思いますが、その「情報」の捉え方の違い、受け取り方の違いで、個々が様々な状況を生んでいるのだろうなと考えたりします。

その状況の違いを生んでいるのがその人の「自我」なんだろうと思ったりしますが、何がいいとか悪いとかも無く、人それぞれでどう映るかは様々なあり方があるというか、目の前に広がっている世界は、自分と他人とでは全く違うんだろうと考えると、私も、家族のことに関しては、大いに自分の自我で動いていたなと思われますし、自分の中の「毒性」の様なものも自分で認識していた様に思います。

自我とは、その人がその人でいるための、勿論大事なものだとは思います。

最近、こんな記事を見かけました。

DISTANCE.media

私は妹が10才の時から家族とは離れて生活をしているので、妹が思春期にどの様に過ごしてしていたかは、はっきりわかりませんが、妹が大人になって少し経ってから、妹には自分の周囲の動きに対する認識として「どこか感覚がおかしいな」と感じたことはありました。

周囲の動きを「意に介さない」というか、ある意味「傍若無人」とも取れる行動をすることがあって(それも悪気なく)それを、私は「そんな人柄、個性なんだろう」と勝手に解釈して、受け流したことがありました。

ただ、妹の言動は、受ける者にとっては快いものではなく、私のそれと同じ気分になった人は、今考えるとあったかもしれないとは思います。

去年妹の病歴や症状をこと細かく調べて、整理した際に、ある医療機関からは「自閉スペクトラム症(発達障害)」「適応障害」という診断を受けていたことがわかりました。

それを見て、自分もそう感じた様に、妹は周囲からも、ある種の「社会性に欠ける」と思われてしまった部分は継続してあったのかもしれないと振り返り思います。

「社会性に欠ける」と感じるのは、私自身の自我からくるものだろうと思うのですが、その自我とは、西洋占星術でいうと、何の要素になるんだろうと考えてみると、私の場合、月とアセンダントに多く思い当たる部分があり、反射的に反応してるかなと感じます。

それ以外の天体の要素も状況によって出てくるとは思いますが、太陽は、顕在意識で感じる前向きな気持ちや、譲れない行動として強く感じる時があります。(反射的というよりは深い部分から来る感じかな?)

自我の反応として、例えば「人からこう言われたり、されたりしたら、普通、こう返すよね」とかいう自分の中の「妹の情報」に対しての捉え方、受け取り方に、自分目線があったりして、妹には時に手厳しい言葉を投げかけたりしていたことがあったかもしれません。

そのことは、「他人は自分と同じ様に見えている、聞こえている」と、無意識に決めつけている部分がある程度あったりしたかもしれないと改めて感じたりしました。

この記事の中で言われている通り、人が100人いれば100通りの見え方、聞こえ方があるのが当然だと思います。

お正月明けたら、なぜか、自分のそういった思い込みというか、過去の自分のことが浮き彫りに見えてきたりしました。

自分は「社会生活」という言葉にはどこか弱い部分があり、月が山羊座だからか「その枠内に入って初めて人に認められるのか」とか思ったりするところがありますし、本心では、社会が何たるものか分かってないし、ある意味どうでもいいと思っているにも関わらず、どこかこれまで、自分を外側の人と比べながら律してきた様な気がします。

年が明けて「人から発信される情報」は今後、ますます多様性が出てきて、形態も様々になると思いますが、周囲のことは別枠に置いといて、自分にとってどうかということで受け止めていけばいいのかなと思う様になりました。

できれば、自分にとってのいい状況に運んで行けそうなのものを受け止めて自分を上昇させていけたらいいなと思ったりした年始でした。

みんな違っていてみんないい。

この言葉は新しい新年に向けて、ずっと意識していこうと思います。

相変わらずの長い文章をお読みくださりありがとうございます。

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