1月に「どうすればよかったか」という映画を観に行きました。
映画は、本作監督の藤野知明氏の、統合失調症のお姉さんとそのご両親、そしてご自身の姿とを20年にわたって記録されたドキュメンタリーでした。
「どうすればよかったか」とタイトルにある様に、同じ様な問題を抱えている家族はずっと、いつからとも知れない長い時間思考錯誤すると思います。
私にも映画の中のお姉さんと似た症状の妹がいますが、心の病気は肉体の病気や怪我と違い、「いつから」ということも、本人にも気がつかない死角に隠れていて、わからない場合もあり「どうすれば」という方法論を考えた場合、答えはなかなか見つからないと思います。
そんな時は、たいてい皆過去ばかりを見ています。
それも、現在を生きているその時の目で、自分の物差しでそれぞれが、それぞれの過去を見ているということになると思います。
そうなると決まって、誰かを責めて、誰かを傷つけることになります。自分も含めて。
家族という単位で、長い間同じ時間と場所を共有して生きている(あるいは生きていた)にも関わらず、「わかり合えない」というところに行きついて、各々がやはり生き辛さを感じてしまうということになると思います。
なぜそんなことになるかというと、人には、「自我」と「エゴ」があるからなんだと思います。
「自我」と「エゴ」を全て解放する必要はないとは思いますが、家族でも人によって見ている世界は全く別物だと最初から考えると少し「生き辛さ」から抜けられる様な気はします。
考え方としては、人に変わることを要求せず自分の考えを変えるのがやはりいい様に思います。
そんな風に考えるのに、とても助けになったのが『「頭のゴミ」を捨てれば、脳は一瞬で目覚める!』という認知科学者の苫米地英人氏の著書でした。
人が変われない要因の一つとして、無意識に自分の安全な場所、思考や環境に居続けるという本能みたいなものがあるそうで、その本能的な働きの一部を心理学用語で「ホメオスタシス(恒常性維持機能)」というそうです。
ホメオスタシスとは、生体を安定した恒常的状態に保とうとする機能のこと。
例えば、人間の体温が36度前後に保たれている機能。「頭のゴミ」を捨てれば、脳は一瞬で目覚める!−苫米地英人著−
そして、そのホメオスタシスを含めて、自分が生理的にも精神的にも楽でいられる範囲のことを「コンフォート・ゾーン」というそうです。
「コンフォート・ゾーン」を自分の簡単な例で説明すると、体重が長年変わらないということがあります。
例えば、クリスマスやお正月など「食」がついついススむ季節に食べすぎたとしても、特にダイエットとか「痩せようとする」行為をすることなく体重は、2月のバレンタインの頃には元に戻っています。
これは、私には体重が重過ぎるのも辛いし、栄養補給が出来ないほど痩せすぎはいやだという意識がありますが、生理的には体に負担がかからない様に体が自動調節しているのかも知れません。
精神的なことをいうと、私は思春期には太っていて、男子生徒から外見をからかわれたという悲しい記憶があり、食べ過ぎ=外見的マイナスというイメージから、食べたら、食べ控えるということを無意識的に心でコントロールしているのかも知れません。
つまり上下しても、一番居心地がいい体重にいつも無意識に戻っていると思います。
そして食べたいだけ食べることが心地よいという人もいますし、外見より内面に常に意識がいく人もいますし、その人にとっての「楽」「安心できる」という場所は、それぞれ違うのだと思います。
苫米地氏の書籍を読み進めていくと、コンフォート・ゾーンはだいたい過去の記憶によって作られていて、どういう体験をして、どういう感情を持ったかによることが多いということです。
そして「自分はどんなゾーンにいるのか」ということに「自我」が大きく関わっている感じがします。
また、苫米地氏の書籍には、見ている世界が人によって大きく違うということに「スコトーマ」ということが関わっているということが書かれていました。
スコトーマとは直訳すると「盲点」ですが、「人は自分にとっての重要な情報しか認識しない」とすると、心理学的には認識していない部分を指す言葉だそうです。
人は、実際自分の目の前で見たり聞いたりしているのに、自分にとって興味がないもの、必要ではない情報、価値を感じない情報などは、スルーしてしまうということはあると思いますが、スルー=無いに等しいということで、その人にとってはそれは存在しないということになるのだそうです。
確かにその通りだと思いました。
再び簡単な自分の例を挙げると、私は去年の年末娘とドライヴに行ったのですが、海岸沿いを歩いていると、ネコが私たちの目の前を横切って行きました。
また、土手のところを歩いているネコを見かけました。
娘はネコが大好きなので、しばらくはネコとジャレあったりなんかして時間を過ごしたのですが、帰りに娘はネコが4匹もいたと満足そうに言っていました。
でも、私は目の前にいたネコ2匹しか目に入りませんでした。
ネコが大好きな娘は茂みにいたネコ、走り去って行ったネコも見た。
ネコが普通な私は、(決して嫌いじゃないです。)目の前にいた2匹は見た。
ネコが4匹いる世界と、ネコが2匹の世界。
この様に、人は同じ空間で息をしていたとしても、世界は違うのだと思います。
国籍が違っていても、同じスポーツのアスリートだったり、同じアーティストだったり、研究している対象が同じだったりする人たちの相互への理解度のことを考えてみても、より近い世界を共有している、生きているからなんだと納得できます。
たとえ家族だとしても、かなりかけ離れた世界を生きているというケースは案外多いのかも知れないと思ったりします。
そして自我やエゴ、スコトーマを形成している要素を考えたりする時、西洋占星術からの視点や、見方はあるなぁと感じるところもあるのですが、続きはまた次回書きます。
毎回長い文章を読んでいただき、ありがとうございます。